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とどくとおもう Ⅱ

Full of Junk and Nothing

ぷ~た資料865-06:日本のPTAの特殊性(06)

05の続き。
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 いずれにしても、そういう構えのおえら方の意見にたいして、もし誰かが反対しようものなら、ことである。平会員のお母さんが、役員の意見にたいして、真っ向から反対の意見をのべる。そんなことがあれば、これは役員の顔をつぶしたというわけである。いろいろな意見がでておもしろいどころのさわぎではない。どうにもならない白けた空気になって、反対意見をのべた人が、なんとも気まずい立場に追い込まれるのがおちである。そうなることは、やってみなくても、ちゃんと感じられることであって、会場の雰囲気が自然にそういう調子になっているのであるから、人びとはおえら方の意見をおとなしく拝聴して散会するのが無難であるということを、からだで感じとるのである。こういう会合が、楽しいはずはない。こういう会合が、何回繰返されたところで、人びとの智恵はみがかれない。人びとの眼はひらかれない。会合をやっておりますという、お体裁だけのことである。
 日本人が、そのような社会生活の経験だけしかもたないということは、なんという不幸なことであろう。それが親の問題であれ、子どもの問題であれ、自分たちの社会生活のうえで、困ったことは困ったこと、不愉快なことは不愉快なこと、改めなければならないことは改めなければならないことというように、すべて物事に筋道をはっきりさせ、自分の意見もきちんと述べ、他人の意見もしずかにきき、人びとが力をあわせ、めいめいの役割を演じ、共通の利益を増進してゆく。こうなってはじめて、たがいに幸福になれるのである。これが民主主義的な社会生活というものである。
 PTAの会合にあつまる親たちは、いずれも人の子の親であり、人の子の親として対等な立場にたっている。親という立場ほど平等なものはない。子どものためにはこうするのがよい、子どものためにはこれはおもしろくない。それだけの意見をもてない親はないはずである。そういう親どうしが各自の意見をもちよって、子どもの幸福のために協力するというのがPTAというものである。ここでは親と教師が、また親たちどうしがまったく対等の立場で、意見をだしあい、力をかしあわなければならない。PTAにおいてさえ、おえら方がのさばり、一般の会員が万事おえら方まかせであるとしたら、これほどなさけない話はない。PTAとは、先生のお話をききにゆく会だと、親たちが心得、おまけに先生までがそのつもりだというようなPTAであるとしたら、まことにあわれである。しかし残念なことにも、多くの町や村の学校では、PTAの内部にまで、権威主義がもちこまれている。権威主義と形式主義の抱合せが、多くのPTAを骨抜きにし、くだらないものにし、有害なものにさえしている。
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ぷ~た資料865-05:日本のPTAの特殊性(05)

04の続き。
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2 権威主義から抜けださなければ日本人は幸福になれない

 民衆の生活が幸福であるかどうかは、そもそもはじめから考慮されない。たとえ不幸であっても、とやかくいわせない。世の中とはこういうものだ、人生とはこうしたものだとあきらめさせる。そうして万事表面の体裁だけをととのえてゆく。こういう社会生活の体制が維持されるためには、どうしても一つのことが必要になる。
 その一つのことというのは、民衆が仰ぎみる権威を立てておくことである。民衆はその権威のまえにおそれかしこみ、その権威に随順する。権威のある人が号令をかけることによって、人々は集められる。話をきいておれといえば、黙って話をきいている。話に賛成しようが、賛成でなかろうが、話が面白かろうが、つまらなかろうが、拍手すべきだと合図がかかれば、権威のある人の合図に調子を合せて拍手をする。権威のある人が万歳の音頭をとれば、いっせいに万歳を三唱する。このようにして表面の形式がととのえられる。それであるから、つまり形式主義というものは、じつは権威主義というものとむすびついて、はじめて成立することができるのである。形式主義と権威主義とは、1枚のメダルの裏と表である。形式主義のはびこるところには、権威主義がしみこんでいる。権威主義がのさばっているところには、形式主義がついてまわっている。
 権威主義が、じっさいにはどういう形をとってわれわれの社会生活を支配しているかといえば、それは権威が最高の権威からつぎの権威へ、そしてまたもうひとつその下の権威へというように、上から下へと、だんだんに権威が伝達されるという形をとっているのである。戦前には最高の権威は、官と軍であった。何々大臣がこういつたそうだ、軍の意向はこうだそうだ、というようなことを、県会議員の誰それさんが、先日上京したとき代議士の誰それさんから聞いてきた。その情報をこんどは村会議員の有力者の誰それさんが聞き込んで、村長さんに耳うちする。村長さんから父兄会の会長さんにその話がつたわる。父兄会の会長さんから父兄の役員連中にその話がささやかれる。父兄会の役員連中は、学校へ集まってきた父兄たちのまえでその情報をちらりと匂わせる。すると父兄たちは呑み込み顔でうなづきあう。おえら方たちがなにかと情報に通じ、いろいろと心得ている以上、万事の方針はおえら方たちにまかせるほかはない。そういうことになるのである。
 戦後は、軍はなくなった。そして官の上に、もう一段上の権威があらわれた。関係方面の意向というのがそれである。そういうことをやるのはいけないというのがあちらの意向だから。そういうふうにやれというのがあちらの意向だから。こうおえら方がひとこといえば、万事はそれまでである。おえら方が、どこからそういう情報を仕入れてきたのかもしらないし、ほんとうに関係方面からそういう方針が示されたのか、それもわからない。ただもう権威のある人が、最高の権威とつながりがあるらしいことを口にしたというだけで、万事はオーケーである。人びとは呑み込み顔でうなづきあうのである。
 こういう権威主義の筋が一本とおると、すべてのことがその調子になる。万事がおえら方まかせである。PTAの会合では、役員や幹事役の人びとの権威がぜったいである。会合で発言するのは、いつもきまりきった数人のおえら方だけになる。お母さんたちは、それを怪しまない。おえら方じしんもそれを怪しまない。おえら方にしてみれば、自分が指導的意見をのべて、みんながそれに従うのが、理の当然と思いこんでいる。皆さんでひとつ御相談願いたい、皆さんの自由な御意見を伺いたい、というのは、さあひとつわしのいうことを聞いてもらいましよう、というのを、当世風にいいかえただけで、もともと皆さんの意見を聞こうとほんきで考えているわけではないのである。どうせお母さんたちは無智だからと、意識的になめてかかっている場合もあるであろう。そこまではゆかなくても、要するに自分が会を引っぱっているのだ、自分の指導的意見によって会がうごいているのだという意識にあぐらをかいている場合が、すくなくないであろう。
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人権意識と日本語表現

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ぷ~た資料212-23:広報紙〈日本PTA〉を読む(23)――来年度は公益社団法人?!

#337(2012年3月31日付)のp.1(第1面)の1段目から抜粋。
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 日本PTAは、公益法人
の申請に向けて特別委員会
を設けて定款などの検討を
進めており、平成25年4月
には公益社団法人としての
一歩を踏み出せるよう準備
を進めたいと考えておりま
す。
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cf.――広報紙〈日本PTA〉のサイト

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閃き検索(266)――啓蒙 啓発

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ぷ~た資料865-04:日本のPTAの特殊性(04)

03の続き。
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 PTAにしてからがそうである。アメリカのPTA運動は50年の歳月をついやして、こんにちアメリカの小学校、中学校のわずか20パーセント足らずを組織することができたにすぎない。アメリカの大多数の小学校・中学校にはPTAはまだないのである。そのかわり、PTA運動は、民衆の下からの運動であり、PTAをほんきでやろうという者だけが集まって活動しているのであり、自分たちの情熱と努力でPTA運動を育てているのである。それがだんだんにひろがってきたのである。だから役所の号令でいっぺんにPTAをどこの学校にもつくらせるというようなひろげかたはしない。市民の下からの運動として、じわじわとやってゆく。何年かかるかわからない。しかしほんものをつくってゆく。形式だけのものをいくらたくさんこしらえても、それは無益なことである。いや、無益であるばかりではない。有害でもあり、不愉快でもある。だからそういう形式的なことは、さいしょからやらない。これがアメリカのゆきかたである。ところが、このPTA運動が日本に入るとどうであろうか。文部省から「父母と先生の会の栞〔ルビ:しおり〕」というものが出され、これが各府県の手によって表紙だけかえて印刷されて配布されると、あっというまに全国津々浦々の学校に、PTAができあがってしまった。おどろくべき速さである。ところが、そのPTAがどんなPTAであるかは、こんにちではすべての人びとがよくしっている。寄附金をあつめるだけが能のPTA、いつでもきまった顔触れの小人数の者だけがあつまっているPTA、会則と役員名簿だけのPTA、総会をひらいても会員がろくに発言しないPTA、そういうPTAが一般普通の例であることはいなむことができない。これはどういうことを意味しているのであろうか。これはPTAもまた、日本に入ってくると、たちまちにして形式だけのものになってしまったことを物語っている。
 すべてがこの調子である。看板だけのもの、形式だけのものがいたるところにはびこっている。この形式主義をやぶることが、日本の社会の民主化をすすめるうえのもっとも大切な基本線の一つである。子どもの幸福のためにやることだもの、せめてPTAくらいは形式主義をやめて、ほんものをつくろうではないか。PTAが形式主義の見本とあっては、あまりにも恥かしいことである。
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ぷ~た資料865-03:日本のPTAの特殊性(03)

02の続き。
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 たとえば、無月謝公立学校の制度がそれである。人間は、人間たる資格において、平等でなければならないことをほんきで考えるならば、人生の出発点における学校教育を、すべての子どもたちが平等にうけられなければならない。金持ちの子は、よい学校教育をうけることができるが、貧しい家の子は、よい学校に行けない。いやそれどころか、全然学校に行けないというようなことになったら、どうであろうか。そういうことでは、人間は人間であることにおいて万人平等であるという民主主義の原則は、空文句である。そこで、無月謝公立学校制度という考えがおこってくる。親の経済状態にはかかわりなく、子どもたちに同一・平等の学校教育をうけさせることにしよう。すくなくとも一人前の公民として、税金をおさめている納税者の子どもは、一人のこらず無月謝の学校で学ぶことができるようにしよう。そういう無月謝の学校を公費で設立し、維持しよう。こういう要求が、アメリカの市民たちのあいだにひろくおこったのは、19世紀の30年代であったが、その後、こういう主張をする人びとの努力によって、アメリカの各州に無月謝の公立学校制度が確立された。しかしながら、どこの州でも無月謝学校法が州議会を通過するまでには、数年ないし10数年の歳月を要している。その間、人びとは無月謝学校が必要か不要かについてしんけんに意見をたたかわせた。或る州では、やっと無月謝学校をつくる法律が州の議会を通過すると、その翌年の議会では反対派の人びとの勢力がつよくなって無月謝学校法の廃止が決議されてしまう。無月謝学校を主張する人びとは、それから8年間市民の啓蒙に努力して8年目に再び無月謝学校法が議会を通過する。
 そういう民衆の下からの運動をとおして、無月謝公立学校制度がうみだされたのである。まづ最初は無月謝の公立小学校が実現され、つぎには無月謝の公立中学校がその上にのせられる。そして州のなかには、さらにその上に無月謝公立のカレッヂをのせるものがでてくる。ここまでくるには、ざっと5・60年の歳月をついやしている。そのかわり無月謝といったら、ほんとうに無月謝である。税金を納めている市民ならば、ビタ一文の金もつかわずに、子どもを学校へ通わせることができるのである。今世紀にはいると、子どもが学校でうける教育内容も、どんどん充実してきた。教科書も無料で貸与される。よい学校になると、たくさんの種類の参考書が学校図書館にそなえられている。無料の学校給食も行われる。無料の医療施設や歯科の設備もつくられている。これがアメリカにおける現代の無月謝公立学校制度というものである。ここでは無償の義務教育ということは、看板ではない。掛け声だけではない。それは誰もが味わっている自分たちの生活の事実である。
 この無月謝公立学校制度が戦後、日本に入ってきた。6・3制がそれである。憲法には、義務教育は、これを無償とするとかいてある。教育基本法には、9年間の義務教育は、無月謝でやるのだとかいてある。日本にもついに無月謝公立学校制度が実現された。ところがそう思ったのもつかのま、それからほんの数年たったこんにちでは、6・3制の無月謝の原則は完全に崩壊している。PTAの会費、学級費、維持費等々の名目で、親たちは毎月相当の経済的な負担をしなければならない。ちゃんと税金を納めている納税者が、なおその上に毎月いくらかの金を公立学校に差し出すのである。それはどのような名目であろうとも、実際上、月謝である。しかもおどろくべきことに、人びとはこの事実を怪しまない。ごくあたりまえのような顔をして、毎月学校に金をだしている。しかも一方では人びとは、税金については、こぼしている。そのくせ、苦しい思いをしてだした税金が、どこでどう使われているかについては、すこしもしらない。また、これをしろうともしない。ただ、税金が高いことをなげいている。そしてそのそばから、毎月学校へ金を納めている。これはどういうことを意味しているだろうか。これはわれわれのところでは、民主主義がまだうわのそらの空語であって、6・3制という無月謝公立学校制度が、たちまちにして形式だけのものに落ちぶれてしまったことを物語っている。
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ぷ~た資料867:20年前の母親は育児が楽しくなかった?!

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 有配偶女子の出生率の低下には、老後の子供依存の低下、仕事と家事・育児の両立の困難性、教育費の増大、狭い住宅等が影響している。
 さらに欧米諸国と比較して顕著なことは、子育ての意味として「子供を育てるのが楽しい」と思っている母親が、日本では圧倒的に少ないのである(欧米諸国約7割に対して日本では約2割)。その反面、「次の社会をになう世代をつくる」という意識が強かった。そうした意識下では個人主義が進むにつれて楽しくない子育てを敬遠するのは当然のこととなる。
 なぜ子育てを楽しいと思う女性の比率が低いのだろうか。少子化白書発表後の新聞・雑誌での識者の論評の多くは、育児における女性の負担が重過ぎる点にあった。育児施設の整備の遅れや教育費等の費用の増大の他に男性の協力不足(男性中心社会)を指摘する方々が多かった。その後、男性中心的な日本社会も変容していると思われるが、男性の家事分担は欧米に比較して依然として大幅に低いことには変わりはない。事実、男性の家事・育児・介護活動時間の多い国の方が一般的に出生率は高い傾向にある。
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see⇒学士会報#815(1997/平成9年4月)の《「少子化」再考》

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閃き検索(265)――放射線教育

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閃き検索(264)――原子力教育

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閃き検索(263)――原子力発電 放射能

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ぷ~た資料866:放射線等に関する副読本

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 この放射線等に関する副読本は、
小学校・中学校・高等学校等における指導の場面での活用を念頭に作成していますが、
幼稚園の教員、子ども達の保護者、地域社会や学校周辺のコミュニティの皆様など
多くの方々にも分かりやすく読んでいただけるものと思い、
幼稚園やPTA関係団体、公民館や図書館への配布を行うこととしています。
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see⇒MEXTのサイト《放射線等に関する副読本》

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ぷ~た資料865-02:日本のPTAの特殊性(02)

01の続き。
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 われわれは、町や村で住民どうしがたがいの利益のために、けんめいに力をあわせ、そのよろこびをわかちあったという経験をほとんどもたないといってもよい。民衆が力をあわせて共通の利益をたたかいとり、みんなのよろこびとたのしさをつくりだす。そういう生活の実感のないところで、形式主義が生まれるのは、あたりまえである。民衆の幸福について、民衆じしんが真剣に努力するところでは、形式主義は通用しない。これこれのことは自分たちの幸福に役立つかどうか。どうしたならば、それを自分たちの幸福に役立てることができるか。そのためには、まずどこからどのように手をつけるか。そういうことがすべてのことがらについて、考えられ、実行されるところでは、形式主義は通用しない。民衆の生活にとって、役立つもの、便利なもの、快適なものは、受け入れられるが、民衆の生活にとって、役に立たないもの、看板だけのもの、形式的なものは存立をゆるされない。民衆が、民衆じしんの幸福を真剣に考える自由を、長いあいだ奪われていたわれわれの社会に、形式主義がはびこることは、だから不思議ではない。どんなものでも日本に入ると、形式化してしまう。
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ぷ~た資料412-03:【PTA 参考規約】(3)

1949(昭和24)年4月1日付で【定価30円(税込)】と明記された《父母と先生の会 参考規約とその解説》という本が発行されている。
cf.――参考規約の本文が読めるサイト↓(解説の本文は読めない)
http://kohoken.s5.pf-x.net/cgi-bin/folio.cgi?index=ssc&query=/notice/19481201.txt

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前衛主義と責任倫理

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ぷ~た資料865-01:日本のPTAの特殊性(01)

《日本のPTA》(社会・生涯教育文献集Ⅲ-24)のp.209-p.253【第七章 日本のPTAの特殊性】全文を、適量ずつ順次掲載する。
原文の、漢字の正字は新字に変え、漢数字は算用数字に変えた。

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閃き検索(262)――東京都教育研究連盟 常任理事 東京都小学校PTA協議会会長

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ぷ~た資料864:単P加盟

以下、自称「都小P」のHPからコピペ(適宜改行・緑化etc.byFJN)。
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一般社団法人への移行のお知らせ
社団法人東京都小学校PTA協議会は
公益法人制度改革に伴い、
平成24年4月1日付けで法務局への登記を完了し、
「一般社団法人東京都小学校PTA協議会」へ移行しましたことをご報告申し上げます。
一般社団法人移行後も、これまでの事業を継続し、
東京都内小学校PTAの皆さまの一助となるような活動をさらに進めてまいります。
また、新たに準会員として単位PTAでの加盟(単P加盟)もできるようになりました。
単P加盟についての詳細は、都小P事務局までお問い合わせください。
今後ともご理解、ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。
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see⇒http://www.ptatokyo.com/

・・・今時の小学生は6年生あたりで学ぶのだろうけれど、日本語で、
  「…になりました」
と、さも【自然とそうなった】かのように書く文章って、多くの場合、正確には、
  「(誰かが)…と決めました」
と、ぶっちゃけ【不自然にそうした】(=人為的に操作した)と告白しているんだよね(笑)。

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閃き検索(261)――橋本治 フロイト批判

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閃き検索(260)――ハナミズキの伝説

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閃き検索(259)――1989 参院選 原発いらない人びと 今野敏

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