前エントリと本エントリと
次エントリの3回に分けて≪未完の憲法≫(140503初版/同05152刷,潮出版社)のp.108ℓ.8-p.112ℓ.2を抜粋し紹介する。
原書はタテ組。原文にあるルビは省き、原文の「木村」「奥平」は「▼」「▲」に置換した。
適宜改行etc.byFJN。
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▼ 一つには、
「たかがPTAに対して、憲法とか結社の自由とか、堅苦しい事を言うな」
という反発。
それと、
「PTAという大事なコミュニティを、アンタは破壊するつもりか」
という反発ですね。
まあたしかに、コミュニティというのは重要な社会的要素ではあります。
しかし、加わらない人を排除するイジメが行われているような場合、外から私のような専門家が介入して、息苦しさを取り除いてあげなきゃいけないと思うんです。
そうやってこそ、公共というものの価値が発揮されるわけです。
しかしそもそも、PTAにかかわる人たちの中では、自分が公共にかかわっているという自覚すら希薄なんですね。
だからこそPTAがイジメの場になったりする。
憲法はさまざまな自由という価値を追求するものですが、同時に公共という価値を追求するものでもあります。
しかし、自由という憲法価値については広く知られているのに、もう一つの柱である公共という憲法価値については、十分知られていない気がするんですね。
▲ そういう面はあるかもしれない。
日本ではずっと長い間、公共性という観点で物事を判断するということに希薄なところがあったんですね。
PTAのような団体では、その内部の人たちが判断して決めたことを、そのまま公共性判断であるかのように見なすことを許す文化であった。
下世話な言葉で言えば「村社会の論理」みたいなものが生きながらえていた。
ところが、少しずつ日本人の中にも人権意識が涵養されてきて、本来の公共性の中で自分や子どもを取り扱ってくださいと訴える親御さんが増えてきたんでしょうね。
たとえば、
「自分は働いているのだから、平日昼間のPTAの集いには参加できません。そもそもPTAは強制加入にすべきではないはずです」
などということを堂々と主張する人が増えてきた。
その結果、伝統的なしきたりの世界であったPTAの中に、いろんな波風が起きてきたんでしょうね。
それはまさに、先ほどの「制度と自由」の問題に関連しています。
優れて憲法的なテーマですよ。
おっしゃるように、自由という側面ばかりが強調されてきた憲法について、公共というもう一つの価値を宣揚していくべき時期なのかもしれない。
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なお「村社会の論理」の【村社会】に「*4」と注記マークが付いている。注記本文は以下。
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*4 村社会――閉鎖的で因習にとらわれている社会を「村」に喩えていう言葉。「村」の掟に背く者は排除される理不尽が貫かれる。行政単位のものだけでなく、専門家集団に言われる場合もある。「原子力村」など。
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