仏教徒のアーナンダ(阿難)志向やクリスチャンの原罪観念を理解するための補助線ヒント。
神道信者の殉死礼讃傾向も理解できそう。
以下、
≪私家版・ユダヤ文化論≫(2006,文春新書519)のp.211から。
〔 〕内は原文傍点。
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私たちは〔愛する人間に対してさらに強い愛を感じたいと望むときに無意識の殺意との葛藤を要請する〕のである。
葛藤がある方が、葛藤がないときよりも欲望が亢進するから。
親しい人に対する殺意や敵意が誰にでも潜在的にあって、それが抑圧されるというような単純な話ではおそらくない。
まず愛情や欲望があり、〔それをさらに亢進させようと望むとき〕、私たちはそれと葛藤するような殺意や敵意を無意識的に呼び寄せるのである。
通常、愛する人と死別した後、私たちの死者に対する愛情は生前よりも深まる。
死者を深く哀悼することに私たちは全身全霊をあげて打ち込む。
〔もっともっと愛したい〕と私たちは欲望する。
そのような激しい欲望の中で、私たちは死者に対する愛情が爆発的に亢進する心理的な「劇薬」へと無意識のうちに導かれる。
それは、「私はひそかに愛する人の死を願っていたのではないか」という自責に灼かれることである。
このような無意識的な殺意はもちろん全力をあげて抑圧されねばならない。
抑圧のために、備給しうるかぎりの愛情がそこに注ぎ込まれる。
私は死者に対してこれほど豊かな愛情を抱いていたのだという確信を得るために、私たちは「愛する人の死を願う」無意識的願望を道具的に利用するのである。
フロイトはそのようにも読める。
私はそのように読んだ。
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・・・【殺意】は【希死念慮】や【願死心】といってもよかろう。