昨年3月にリリースされた論文の要旨。
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[論文要旨]
東大紛争大詰めの1968 年12月23 日,加藤一郎総長代行が全学共闘会議に最後の話し合いを申入れ,懸案の文学部処分の「白紙還元」を提案したのに,全共闘は話し合いを拒否したという説がある。
事実ではないが,その当否を検討するためにも,文学部の学生がなぜ処分されたのか,その「白紙撤回」を全共闘はなぜ要求しつづけたのか,1969 年1 月18,19日の機動隊導入による安田講堂の攻防は避けられなかったか,1969 年12月まで文学部だけ紛争が長引いたのはなぜかを考察する。
東大紛争における文学部処分とは,1967 年10月4日の文学部協議会の閉会後,文学部学生仲野雅(ただし)が築島裕(ひろし)助教授と揉みあいになり,ネクタイをつかんで暴言を吐いたとして無期停学処分を受けたことである。
当時の山本達郎文学部長は,12月19日の評議会で,仲野の行為を複数教官に対する「学生にあるまじき暴言」として誇大に説明して処分を決定し,一か月後に事実を修正したが伏せた。
1968 年11月就任の林健太郎文学部長は,同月上旬の軟禁時以外は,仲野と築島の行為の事実を議論せず,教師への「非礼な行為」という説明を維持した。
1969 年8月就任の堀米庸三文学部長は,9月5日,仲野処分を消去するとしたが,処分は適法だったと主張しつづけ,築島の先手の暴力という事実を指摘されても軽視した。
この文学部処分は,不在学生が処分された点で事実誤認が明らかになった医学部処分とともに東大紛争の二大争点であり,後者が1968 年11月に取消されたのちは,最大の争点だった。
加藤執行部は,12月23日,文学部処分について「処分制度の変更の上に立って再検討する用意がある」と共闘会議に申入れたが,林文学部長らが承認する見込みはなかったし,共闘会議から拒否された。
「白紙還元」の提案と言えるものではなかった。
【キーワード】東大紛争,文学部(学生)処分,白紙撤回,白紙還元,行為の事実
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≪東大紛争大詰めの文学部処分問題と白紙還元説≫