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とどくとおもう Ⅱ

Full of Junk and Nothing

ぷ~た資料448-09:日本ぷ~た全協の研究(9)

ぷ~た資料448-08:日本ぷ~た全協の研究(8)の続き。
2003年12月20日発行の<CS研レポート>#50に【一連の教育改革の結果,教育は果たしてよくなったのか?】というタイトルのエッセイが載っている。
執筆者の肩書きは↓。
  ――元社団法人日本PTA全国協議会会長 (臼杵市教育委員会教育長)――
以下、そのエッセイ本文を転写貼付する。

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改革すべきは学校か?
 現代の学校は,一見すると,私が小学生であった昭和30年代に比べ,格段の改善がなされているかのように見える。施設は立派になり,詰め込み式教育も反省され,教員1人当たりの児童生徒数は減少した。教科書は工夫され,給食もおいしくなった。教職員組合と行政当局の政治闘争はほぼ終止符が打たれている。
その時々の問題に対応し,行政や立法当局が頭を悩まし,改革を続けてきた結果である。
 ところが,学校に対する不満や批判はいっこうに止みそうにない。マスコミや保護者は,児童生徒に絡んだ事件や問題が発生すると,いまだに学校に批判の目を向ける。その批判が正当な場合もあるだろう。しかしながら,教育改革と称して学校制度をいじくりまわし,果たして問題とされるものが改善されるのか。教育荒廃と言われる状況の根本原因は本当に学校にあるのか。
 私は,学校を改革して「事足れり」とする行政やマスコミの対応に接するたびに,本当の問題を隠匿する卑怯を感ぜずにいられない。特にマスコミの姿勢には,言葉はきついかもしれないが,救いがたい自己欺瞞を感じている。
本当に改革すべきもの
 現代の教育が抱える問題の多くは,学校に原因があるのではない。むしろ問題は,過剰な刺激で脳を退化させるとしか思えないテレビ番組であり,劣情や暴力を誘発するゲームであり,そのようなテレビやゲームに釘付けさせている家庭での躾である。子どもは一面では非常に早熟化している。ところがそれとは裏腹に,生きる基礎である体力を失い,正常な発育と成長が阻害されている。バーチャルで所属不明な情報の洪水を毎日何時間も浴びながら,子どもの社会認識は大人の想像を易々と超えてしまう。学校が悪くなったのではない。子どもが変化したのである。そしてさらに事情を悪化させているのは,状況を反省すべき大人も変化してしまっていることである。ここではテレビやゲームは代表として掲げるに過ぎない。しかし,本当に教育を改善しようと思うのなら,テレビやゲームを変える意志を持たねばならないことも事実である。「子どもは十分理性的であり,情報を鵜呑みしているわけではない」といった言い訳を私は信用しない。テレビが自らを断罪し,大胆な改革に踏み切らないかぎり,私はテレビの教育に関する言説を信じない。
宗教と徳育教育と
 最後に,宗教と教育の関係についても言及しておきたい。宗教も教育もともに「教」の字を共通に持つ。ともに人間の獣性を矯め,よりよい方向に導く機能を持つからである。しかしながら,日本では,宗教が日常の倫理として機能していない。アメリカの犯罪の恐ろしさは日本の比ではないが,少なくともアメリカにはピューリタンの信仰を基盤とした強固なキリスト教倫理が根づいている。イスラム教もユダヤ教も人間に強く倫理を求めることに変わりはない。
 翻って日本はどうか。神も仏も信じない無神論のニヒリズムが蔓延するこの国で,倫理の歯止めは利くのだろうか。かつては恥の文化が日本人の倫理を形成したという。しかし,どうやら恥の文化は過去のものとなったようである。これから一体,日本人は何を倫理の拠り所とするのか。
 もちろん倫理については,第一に家庭に期待したい。しかし,家庭は,政治や行政で変えることはできない。ならば制度として改革可能な学校では,何を行うべきか。もし,このことを真剣に考えるのなら,日本における徳育教育は,あらゆる教科の筆頭に置かれるべきであり,あわせて宗教的情操の涵養をしっかりと行う。これが私の率直な意見である。
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see⇒PDFファイル↓のp.48。
     http://www.shinko-keirin.co.jp/csken/pdf/50.pdf

cf.――http://www.shinko-keirin.co.jp/csken/

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