
《社会教育の終焉》(松下圭一、1986、筑摩書房)より;
序章のpp.3-4に以下の文章がある。
―― 「教育」という言葉を辞書でひいてみよう。必ずそこには「オシエ・ソダテル」という定義がでている。「オシエ・ハグクム」ともでている。
教育とは教え育てる、つまり未成年への文化同化としての基礎教育を意味するとみなければならない。今日の日本ではこれは高等学校水準であろう。
ここから決定的な問題がでてくる。なぜ、日本で、〈社会教育〉の名によって、成人市民が行政による教育の対象となるのか、という問題である。国民主権の主体である成人市民が、国民主権による「信託」をうけているにすぎない道具としての政府ないし行政によって、なぜ「オシエ・ソダテ」られなければならないのだろうか。
(中略)
日本の国民が政治主体たる市民として「成熟」しつつあるとするならば、今度は逆に社会教育行政が、日本型文脈で生涯教育行政へと解消されても、「死滅」しなければならないことになる。事態はすでにこのように進行しているのである。社会教育行政は国民の市民性の未熟のうえにのみなりたつにすぎない。――
cf.http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E5%9C%AD%E4%B8%80
序章のpp.3-4に以下の文章がある。
―― 「教育」という言葉を辞書でひいてみよう。必ずそこには「オシエ・ソダテル」という定義がでている。「オシエ・ハグクム」ともでている。
教育とは教え育てる、つまり未成年への文化同化としての基礎教育を意味するとみなければならない。今日の日本ではこれは高等学校水準であろう。
ここから決定的な問題がでてくる。なぜ、日本で、〈社会教育〉の名によって、成人市民が行政による教育の対象となるのか、という問題である。国民主権の主体である成人市民が、国民主権による「信託」をうけているにすぎない道具としての政府ないし行政によって、なぜ「オシエ・ソダテ」られなければならないのだろうか。
(中略)
日本の国民が政治主体たる市民として「成熟」しつつあるとするならば、今度は逆に社会教育行政が、日本型文脈で生涯教育行政へと解消されても、「死滅」しなければならないことになる。事態はすでにこのように進行しているのである。社会教育行政は国民の市民性の未熟のうえにのみなりたつにすぎない。――
cf.http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E5%9C%AD%E4%B8%80
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