とどくとおもう Ⅱ

Full of Junk and Nothing

ぷ~た資料134-01:This is Japanese PTA (1)

http://ci.nii.ac.jp/naid/40007304881/

The PTA as an Apparatus of the State (by IWATAKE Mikako)

abstract――

  Over the past decade an increasing number of studies have addressed the continuity, rather than disruption, between pre- and post-war institutions in Japan. Instead of seeing the pre-war period as a deviation from a "normal" historical course, efforts have been made to situate it as part of the "modernization project" by the national state.

  Drawing upon observations at an elementary school PTA (Parent-Teacher Association) in Tokyo, this paper discusses the PTA, one of the largest yet inconspicuous associations in Japan, as a state apparatus for nationalization. Nationalization does not, however, take place through the visible display of national symbols. Rather it is conducted through the intricate means of informal control.

  The present paper critically examines the PTA from two perspectives. The first one concerns the continuity between the PTA and the pre-war women' s organization, Dainihon Rengo Fujin Kai (the Greater Japan Federation of Women' s Association, hereafter GJFWA), which was founded in 1930 by the Ministry of Education. Although the PTA was introduced to Japan by the General Headquarters after the Second World War, with an aim at creating a public sphere between the state and the individual, it bears more resemblance to the GJFWA than the American PTA. The GJFWA was not necessarily successful in realizing its goal, which was to unite women for the cultivation of the mind and the service to the state. This paper argues that such a goal was more successfully achieved by the PTA in the post-war years.

  The second perspective concerns the government advocacy of a home-school-locality (chiiki) tripartition in the recent decades. This emphasis on locality is discussed here as a form of localism (chiikishugi) and as a Japanese version of communitarianism. In the ideology of the GJFWA, home-school collaboration was central. In recent years, however, the educational functions of home and mother have been considered to be declining. Using the language of loss and nostalgia, the communitarian cause tries to naturalize the tripartition. It follows that the PTA is subordinated to a cobweb of local organizations and institutions in which the Neighborhood Association (Chonai-kai) serves as a key social capital.

  The article discusses the PTA as a form of present-day mobilization of women in the context of the national government' s attempt at revising the Constitution and the Fundamentals of Education Law. These attempts can be seen as steps towards turning Japan into a warring state.

↓英文のabstractに対応する和文の[論文要旨]↓。
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 本稿は、東京都杉並区の公立小学校のケースから、日本最大の組織の一つとされながら見えにくい組織であるPTAを国民化の装置として論じる。戦前と戦後を断絶よりも連続の視点から捉え、戦前と戦後を共に国民国家による近代化プロジェクトに位置づける。PTAは、戦後、市民社会の領域を創出することなどを目的に、GHQ(連合軍最高司令官総司令部)により導入されたが、その前身として文部省により1930年に設立された大日本連合婦人会(連婦)がある。戦前、「修養と奉仕を目的とする系統婦人会」を目的とする婦人の統合は必ずしも成功しなかったが、戦後になってPTAとして一つの達成があったと考えられる。
 連婦の時代、家庭と学校は補完的関係に配置され、家庭教育振興は連婦の目的の一つであった。しかし、現在は家庭と母への期待は相対的に後退し、家庭・学校・地域による教育が推進されている。そこで、PTAは構造的に地域に従属する。ここでは、「地域ぐるみ」という思想を地域主義として捉え、近年英語圏で論じられてきた共同体主義(コミュニタリアニズム)と社会的資本という概念を援用して、その位置づけと相対化を図る。
 現在、教育基本法「改正」の動きがあり、改憲との連動、戦争できる国づくりに向ける流れなどが指摘されている。なぜ女性たちは戦争に協力したのかという問いは、しばしば問われる過去形の問いであるが、ここでは現在における動員の問題を問う。
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★――以下、私の、論文《国家の装置としてのPTA》読後メモ:

00.タイトルに引かれ図書館でコピーして読んだ。

01.一読して『触発される…』と感じた。論者の体験に基づく考察も、学知的立場からの分析も、おそらく日本中のPTA現象に通じる事柄を描出していると痛感した。また、外国語に堪能な学者ゆえ当然なのだが、文体が重厚で沈着で高潔である。

02.日本のPTAが温存してきた暴力性、女性差別性、人権侵害性、没論理性、脆弱さと強靭さを併せ持つカルト性――等々、私のPTA体験(公立小・中学校において1998~2006年頃)からも、頷ける事が多々あった。

03.日本のPTAは奇奇怪怪で奇妙奇天烈で不気味で不可解…ゆえに「妖怪」と評すべき基層がある。

04.個人会員あるいは個世帯会員が、
「PTAの理不尽さに巻き込まれる」ことを回避する
「PTAに参加して手を取り合って堕落する」ことを拒否する
――という姿勢で率直な意見や行動を表明すると、既存の妖怪PTAはそれを「異端視」する。
姿勢や意見や行動の内実を異端視するのではない。
「表明」を異端視するのである。
これこそ日本のPTAが妖怪である証の1つであるのだが、「表明」を異端視する点において紛れもなく日本文化であることを踏まえると、「日本は妖怪」という論点も導かれる。
この「日本は妖怪」という論点を私は否定しないが、今は追及しない。

05.私はかねがね、『日本の妖怪PTAは、妖怪である一点において、文化人類学・宗教社会学・コミュニケーション学の対象にもなる』と考えてきた。
したがって、民俗学からのアプローチである論文に合点と納得が行った。

06.論文には、PTA関係者――保護者や教職員――が読んで考えるべき事柄が的確に抽出されている。
同時に、教育行政に携わる公務員こそ、また議会で教育問題を論じる議員こそ熟読すべき論文だと考える。公務員とは、地方公共団体(都道府県区市町村)で教育担当部門にいる地方公務員と、文部科学省の官僚をいう。議員とは、地方議会の議員と、国会議員をいう。
広く教育学者にも一読を推すが、昨今の学校教育・社会教育・その他を専攻する教育学者全般が持つPTA情報には不安があることも否めない。躊躇せず述べると、私は、ここ10年の教育学者全般はPTAの実情に関して無知蒙昧または思慮停止または考究放棄の状態にあるのではないか――と判断している。

07.驚嘆したのは、論文中で明示される「連婦とPTAの相似性と通底ぶり」である。
往時の「文部省と連婦、内務省と愛婦、軍部と国婦」といった関連構造の論説を読んで、私は、現在(教育基本法「改正」以後)の「文科省とPTA/学校支援地域本部系事業、総務省とコミュニティ基本法系事業、防衛省系と国民保護法関連事業(防災訓練等を含む)」という関連構造が、実に似通っているという印象を持った。

08.論文中で触れられる、USA政治学者パットナムの用語“generalized reciprocity”は、当今の日本で一種呪文のように使われだした「お互いさま」や「もったいない」に代表される【互恵観念を浸透普及させる用語】にも通じるだろう。
私は、今のところ、個々人が「お互いさま」「もったいない」を行動倫理とするのは正しいと思うが、社会全般に向けて「お互いさま」「もったいない」を共通倫理とすべく呼びかけるのは間違いだと認識している。
ともあれ、論文によって、私は遅ればせながら「地域」「地域主義」「共同体主義」「国民化」「国民国家」etc.に関する蒙を啓かれた思いがする。

09.論文の読後、論者の編著書『民俗学の政治性』を図書館で借りて読み、「伝統概念の再考」の箇所に感銘した。
日本のPTAが妖怪なのは、俗にいう「守旧系」「進歩系」が共に「PTAは善いもので必要な組織」と見なしている点にもある――と私は思う。
守旧系については、いずれ批評予定であることだけ記し、ここでは触れない。
進歩系についての論評を先行させると、例えばPTA会長経験者だった教育学者の故・山住正己が著した『PTAで教育を考える』を読んで、私は呆れた。彼ら(当時の進歩系)の行動理念に対し、当時の状況を考慮しながらも、一定の批判をしておくことが断固必要だと痛感した。
その批判を1つ書く。進歩系PTA論者の「任意加入観」である。こんなことを言っている。
――「強制加入」ではよくないけれど、
「任意加入」だと成り立たないから、
「当然加入」という新語を編み出した――
私は「この自己陶酔的な洗脳路線は噴飯物だろう?!」と感じた。
繰り返すが『当時の時代的制約は考慮すべきだ…』という認識は無論ある。

10.私は、日本のPTA関係者一般が一種無思考ぎみに説く【会員の公平・平等】と【会員の義務】と【会員の権利】という3つは、三位一体となった強迫観念として、網羅的な強制力に寄与していると観じる。

11.日本の社会も組織もいまだに大方そうであるが、特に日本のPTAは、「男尊女卑」と「愚尊賢卑」が2大原理である。この2つは、一まとまりに「愚かな男を尊び、賢い女を卑しむ」と呼べる原理にもなる場合が少なくない。

12.私は『大学の教職課程で【PTA学<その歴史と現状>】を講義するべきだ』と考える。教員になったとたんに体験する妖怪PTAという奇妙奇天烈な異文化は、教員に悪影響しかもたらさないと危惧するからだ。既にそのような講義をしている大学があるならば1つの光明である。

13.妖怪PTAの引き起こす諸現象を苦慮する人々は日本中に少なくないだろう、と私は判断する。論文の内容は、そのような苦慮している人々も含め、心ある人々にとって、梃子の支点になるものと思う。論者に反対する意見を抱く人々も、多分に考察の糧を得るだろう。
論者は「むすび」にこう書いている。
――これからも,PTAと関り続ける保護者に力を与えられるような結びとしたいのだが,むずかしい制度である。――
この冷静さは親切さでもあろう。私個人は『この論文全体が充分に力の源泉になっている』と感じた。

14.論文が数箇所で触れている提案の趣旨はこうだ。
――この装置/制度/システムそのものに穴を開けて揺るがす方向で考えること。――
私はこの提案趣旨に基本的に賛成し、そして、この提案趣旨に基づき、現実的な対応を模索する必要性も感じる。
「穴を開けて揺るがす」のは容易なことではない。
何せ年度毎にPTA役員は交替する――という一般的な風潮がある。
この風潮の中で、「穴を開けて揺るがす」という意識をリレーすることは非常な困難を伴うであろう。
日本の妖怪PTAという「似非ボランティア団体」の特色の1つは、「イヤイヤやる活動」だとほとんどの関係者が認識していることだ。
「皆がイヤイヤやっている」ことゆえ「皆がさっさとヤメたい」。
その延長で、「イヤイヤの持ち回りとイヤイヤの分散」という、その場しのぎの、何ともセコい解決策が横行する。
「イヤイヤやること」を「さっさとヤメたい」ゆえ「イヤイヤの持ち回りとイヤイヤの分散」を続けることは、【強制/被強制の連鎖】であり【イヂメ/虐待/ネグレクトの連鎖】であり【幻滅と諦感の連鎖】であり【自主的隷従教】の布教である――と考えることが肝腎なのではあるまいか。

15.論文はp.151で以下のように言う。私の感想は「御意」の一語。
――PTAを変える第一歩は,なりたくないものにはなりたくないと言う権利を行使することであり,あえて不在の役職を作ることにより組織に穴を開けてゆき,組織を維持するための組織を揺るがせることができるだろうと考えるようになった――
――保護者の必要に応じた組織は,柔軟に作られていいが,それがPTAでなければならない理由はない――

16.なお、論文が提示する、「PTAという装置/制度/システムそのものに風穴をあけるロジック」は、p.170で触れられる大石勝男の論文《PTA活動への期待 教育改革のカギを握る存在》(〈学校経営〉1997年3月号)の一節に、巧妙に対応しているように私は読み取った。大石論文の当該箇所は、以下を含む一節が引用紹介されている。
――「最近のPTAは一般に低調で,実質的な効果は期待できない現状があり,会員はわが子のことに精いっぱいで他の子のことまでは考えられないという。しかしなんとかこれらの壁に少しでもアナをあけなければならない。父母会員が逃げ腰では教育改革などは画餅になるし,さらにPTAそのものが成立しなくなる」――

17.論文は「むすび」で、日本のPTAについてこう記す。
――必ずしも絶対に必要な組織であるわけではなく,評議員制度などによって不必要になる可能性も否定はできないという微妙な位置づけにある。――
この認識は、現状から近未来を示唆するところ大だと思う。
一例を挙げると、本論文が発表された2006年の2年後、すなわち2008年の年度当初から文科省が始めた【学校支援地域本部の設置推進事業】も、この認識の方向で解釈可能である――ということがある。

18.蛇足を書くが、私は、日本のPTAが妖怪である主因は、【会員の一括的保険契約】と【PTA連合体に行政サイドから補助金が出ている事実】とに、当の会員が、単位体の執行部(いわゆる顧問・会長・次期会長候補ぐるみ)を含めて、無知であることだ――と愚考している。
さすがに連合体の執行部は無知ではないようだが、それはそれで妖怪の別の面を露見させる。

   cf.1 http://todoct.blog85.fc2.com/blog-entry-146.html
        http://ttchopper.blog.ocn.ne.jp/leviathan/2009/01/1_4a55.html
   cf.2 《民俗学の政治性》の書評論文2本。無料版論文タイトル「賀」は「加」の誤植

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コメント


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18番の、>日本のPTAが妖怪である主因は、【会員の一括的保険契約】と【PTA連合体に行政サイドから補助金が出ている事実】

これ、本当にやっかいだと思ってます。私は、「地区役員があるのだから、本部役員が地区役員を統括してあれこれ指図するのはおかしいのでは。行事もやりたい事をやりたい人が企画して実費を参加者からもらえばいいのでは。そうすれば、本部役員も不要になるのでは」と意見したことがありました。

が、保険がひっかかるのですよね。保険の扱いをどうするかで壁にぶつかりました。適当に地区役員から代表者を決めて契約するということもできるとは思うのですが。

行事も学校単位でやろうとするからいろいろな縛りができるのでしょうね。団体で申し込めば確かに保険料は安く仕上がるのでしょうが。私の子の通う学校の保護者の会の規約には、『保護者の会の会員にならないと、保護者の会の主催するあらゆる行事に参加する事はできません』と明記されております。つまり、地区ごとにたとえば、ドッヂボール大会をします、というのにも参加ができないと言っているのです。保険が適用できないので、ということだそうです。つまり、保険が会員を確保する役目を担ってしまっております。おかしいと思っているのですが。子どもは友達に誘われれば、参加したくなるでしょうし。
こういったこともあり私は学芸会や、運動会、音楽会、展覧会など、すでに学校行事はたくさんあるので役員が企画する行事は不要なのでは、と思ってしまうんです。行政サイドのわずかな補助金のために、さまざまな意義を感じる事ができない活動に付き合わされるのはたまったもんじゃない、と感じております。

長文すみません。

柳下玲優 | URL | 2009年04月09日(Thu)06:14 [EDIT]


感服!

コメントありがとうございます。
【保険】に反応なさる方は、幸か不幸か(笑)、真摯に考えざるを得ない思考力を御持ちの方だと思います、私。
おそらく、MEXT(文部科学省)のバリバリ中堅でファイトしている連中が、代々、『これさえあればこの国のPTAはコントロールできる』と伝授されている要素の1つだと私は愚考しております(笑)。
だから、柳下さんの御感覚は、MEXTレヴェルにハイクラスだと感服しきりなのであります(生意気かいてゴメンナサイっ!)。
保険会社の儲け哲学に対する向上心刺激に寄与できそうな、
【単位PTAに入りたくなんかない保護者をまとめて引き受ける保険プランを提示できたら、たぶん、現在のアンフェアな日本ぷ~た全協系の、少なくとも弐倍くらいの顧客が集まるよ】
と言いたいアイディアがあるのですが…。
ネットでは秘密のアッコちゃん系のアイディアでありまする(微笑)。
とまれ、今後とも親しく御教導ねがいます。

FJN | URL | 2009年04月11日(Sat)19:33 [EDIT]


岩竹論文に触れた談話記事

判る人には判るように触れている(微笑)。
 http://www.kodomononaraigoto.net/totsugeki/37index.html

FJN | URL | 2009年06月01日(Mon)11:04 [EDIT]


関連資料

発表要旨――
《戦時下文部省「母親学級」の研究 : 農村における女性教育・家庭教育政策の展開》(2007)
 http://ci.nii.ac.jp/naid/110006458838

FJN | URL | 2009年08月14日(Fri)14:13 [EDIT]