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とどくとおもう Ⅱ

Full of Junk and Nothing

陽明学と全共闘とパンク

三宅雪嶺が『王陽明』(1893)に、こう書いているらしい。
 ―― 但だ彼れ自ら識るが如く、志至て大にして而して力此れに副はず、空しく労して終らざるを得ざりしと雖も、而も心を用ふること、殆ど聖に幾しと謂ふべきか。――

一読して私は亡き恩師が助手の頃に書いたというタテカン(立て看板)の文字列を連想した。
【連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力を尽さずして挫けることを拒否する】
(苦笑)。
なおこの「倒れる」はタテカン書体で【イトれる】だった、ということは次の文章で始まる序を持つ本(http://www.geocities.jp/nichidainoutoui_1968/toride-s.jpg)のp.105にある写真で判る。
 ―― 情況の中の個人は情況を自己の内部にも共有している。弾劾の対象はまずもって自らの内に見い出され、告発の論理はなによりも自己の内部に凝縮される。思想が世界を動かし得るためには世界の外部で思考が営まれてはならない。情況に密着した思考は情況を切開しつつ普遍性を獲得してゆくが、それは思考する主体の否定と変革を伴って可能となる。コミュニケーションはこうした言葉の重みにたどりついた主体から、その重みを共に担い得る客体へ向けられ、また逆流する。実際、流動化した情況の中では大衆はまちかまえている。大衆が結集するか分散するかは、内への告発を外へ転化せしめる言葉の創造にある。このようにとぎすまされたアジテーションは思想を物質化していく。アジテーションは自らへの問いかけであり、他者に決断を迫るものである。――
この文章に、パンクロックのソウルを感じるがゆえに、私は惹かれるのだ。
(再苦笑)。
とまれ、三島由紀夫とか全学共闘会議(全共闘)とか陽明学とかを、淡々坦々と考察したい念に駆られる。
cf.
http://jp.youtube.com/watch?v=JoumUFnpXNo
http://jp.youtube.com/watch?v=3dKnQ63iUSc
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-369.html

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コメント


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伊丹万作→山川菊栄に続き、【情況の中の個人は情況を自己の内部にも共有している。】で始まるこの文章。気持ちよ~く、リングに沈んでおります。
この凄い文の出典にも衝撃を受けています。
いっぽう、ここまでの認識に達していながら、運動が挫折していたったのはなぜだったのかなと、何も知らないながら素朴な疑問もわいてきました。

まるお | URL | 2008年08月07日(Thu)00:07 [EDIT]


残照?

> なぜだったのかなと、何も知らないながら素朴な疑問も
はい、私もそこが疑問です。
全共闘世代(故人も含めて「残照力」に凄味があります)は2007年問題にも関連するので、緩慢にながら調査考察しようと思います。

FJN | URL | 2008年08月08日(Fri)14:42 [EDIT]